告別式を終えて
通夜、葬儀告別式、そして火葬が終わった。
慌ただしく日々が過ぎてゆく。
供養とは残された遺族のためにあるとよく耳にするけど、その通りだと実感した。
通夜は、残された悲しみを一人で過ごすのではなく、親族などと一緒に泊まり、飯を食う。
一人だと喉に何も通らないだろうけど、 皆でご飯を食べるお斎(おとき)などという儀がちゃんとあり、
葬儀告別式では親しい友人や、お世話になっていた人、普段会ってなかった人など沢山の人に会う。
きっと全てが理にかなっているのだろう。
病院でもずっとDroogの不謹慎な舌を引っこ抜くイラストに ( 地獄めぐり ) と書いたバスタオルを枕にひいて使っていたので、棺桶のなかでも兄がかけてあげていたのだが、これが見れば見るほどに不謹慎で笑いが込み上げてきた。
こころのなかで、
ひっそりと母に謝った。
そして棺桶の蓋を閉じる際、葬儀社の人に「最後のお別れです」と告げられ、大好きだったゆりに山ほど囲まれた母に別れのキスをしたら堪えていた涙が溢れた。
この通夜、葬儀という人生のなかで一番悲しいときに来てくれた人や、支えてくれた人には深く感謝している。
“がんという病気は忌み嫌われるが、死ぬまでの時間があり、本人も家族も準備ができるから良い”
散々読み漁ったがんの本に書いてあった言葉。
当時は理解できなかったけど、今なら少しは分かる気もする。
亡くなった後、やることは思っていたより多い。葬儀場やお寺、故人の知り合いの整理などある程度考えてなきゃいけない。
火葬を終え、久し振りに実家に戻り、片付けをしていると、母が生活していた時間がそのまま止まっていた。
あの無理矢理作って飲ませていたジューサーや、
ネットで取り寄せた韓国ドラマのDVD、
手当たり次第に取り寄せた漢方や健康食品、
母が大事に育てていた枯れてしまった植木、
頼まれて録画の設定をした入院した日から未視聴になってるなんでも鑑定団・・・
これはまだ、捨てたり消したりできなかった。
母がいつもみたいニコニコしながら、いらないものを山ほど買ってひょっこり帰ってくる気がしてならなかった。
そして今、また大分空港から東京へ向かおうとしている。明日からの仙台、秋田でライブのために。
まだまだ慌ただしい日々が続く。
病気だから来なくていいと口うるさく言っても、
いつもわざわざ空港まで見送りに来ては、
同乗ゲートを通過しても見えなくなるまでずっと手を振っていた母はもういない。
生きてる時に、介護などで自分の時間を犠牲にすることによって死という現実が訪れた際に少しでも救われると頭の片隅で思って必死にやってきたのだがちっともそんなことはなく、むしろ悲しさは増していくばかり。
それはきっと母といた最期の時間は俺にとって犠牲でも何でもなく、
闘病中だろうが、そこが病室だろうが、キラキラと輝いた幸せな時間だったからだ。
こころにぽっかり穴があいて、虚無感が身を包み、ぼーっとしている。
火葬されて骨になった姿を見たとき、何ともいえない、今までに感じたことのない感情になった。
不謹慎かもしれないが一口食べてみたら、ざらざらとしていた。
骨壺に納めてしまい、納まりきれなかった残された骨は火葬場で供養されると説明されたが、
どうも納得できずに、今でも骨を持っている。
手の部分にした。
昔、誉められるとき頭を撫でられた手。
叱られるとき叩かれた手。
同乗ゲートでいつまでも振っていた手。
病気を宣告されて泣いていたときに握った手。
腫瘍でむくんでずっとマッサージしていた手。
喋れなくなってもずっと繋いでいた手。
力が入る最後の最後まで握り返してくれてた手。
骨になっても、手を繋いでいれるように。
そして各地にツアーで行ったときに少しずつ、撒いて来ようと思う。
旅行が好きだったから、
そのうち47都道府県すべてに行けるね。
今までツアーで各地に行ったときはお寺でお守りや、ご当地のお菓子をおみやげに買っていたかわりに、今度は連れて行くから。
これを撒き終えたとき、
ようやく一人前の男になれると信じて。