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最後の夏

夏になった。日が昇るのが早くなり、蝉の声が聞こえてくる。
半袖を着るようになり、蚊に刺されるようになる。
ビールが旨くなり(年中旨いっちゃ旨いが)、テレビでは海で水着のお姉ちゃんが笑っている。

ふと気付けば、もう8月が始まろうとしている。

時間はあっという間に過ぎていく。

その過ぎ去っていく時間の中でどれだけの大切なものを失って、どれだけの価値を見出していけるか。

1年前や半年前に想像すら出来なかったようなことが平気で起こる。そりゃもうドカドカとやってくる。

もちろん良いこともある。ただ続けて遠慮もなくやってくるのは大体悪いことだ。良いことは遠慮がちなんだろう。

これを見てくれているあなたの調子はどうだろう。
風邪をひいたり、夏バテしたりしてないだろうか。
親とは仲良くしてるだろうか?

母がこの世からいなくなって半年が経った。

母がいないはじめての冬が終わり、はじめての春が過ぎ、はじめての夏がきた。

色々と落ち着いては、また新たな問題も出てくるの繰り返し。だが不思議と日常を送っている。

街で親子などを見かけると以前なら感じなかった暖かい気持ちになるようになった。
そのあと胸にぽっかり空いた穴がグッと苦しくなる。

ふとした瞬間に涙が出ることはあるが、毎晩寝る前に泣くこともなくなった。

寝るときもテレビと電気を付けていれば、なんとなく気は紛れる。

メディアでの家族もの、病気ものは今だにまだちゃんと見ることはできないが、ずっとメソメソしてる訳にもいかない。

はじめての夏がやってくるということは、はじめての盆もやってくる。初盆というやつだ。

上京して知ったが、盆といえば8月と思っていたら、都内や一部の関東圏では7月なんだそうだ。

盆とは改めて調べてみると「先祖の霊を祀る一連の行事」だという。

先祖の霊を迎える「迎え火」や、盆の時期一緒に過ごした先祖を送り出す「送り火」といった文化的習慣は、どうもしっくりこない。

というのも僕にとって母は先祖だの霊だの、そんな遠い存在じゃなくて、もっと近いもの。

なんなら1年前の夏は入退院を繰り返していたものの、ライブがない日はほとんど一緒に過ごしていたのだ。

母の病気が見つかってから僕は日記を付けていて、それを見返すことはまだできないが、去年の夏はこんな様子だった。

病室で「セミが鳴いてるねえ 」なんて、何でもない会話をして、一日中のほほんとした時間を過ごした。

病室もまだ大部屋だったので、同じような状態のがん患者の人たちと皆で、何でもない会話をして一緒に笑い合っていた。

僕がどうにか明るく振る舞おうと、つまらないことばかり言ってると、皆の方が明るくて、逆に勇気付けられた。

「本当にがんなのかよ…このババアたち」
と思うくらいうるさかった。

ある日、母の隣のベッドにいたおばあちゃんが病院内のセブンイレブンでカレーを買っていて、やっぱり食べられないからと僕にくれた。
「美味い!」と食べたら、それから1週間くらい行くたびに毎日カレーを用意されてたのには、流石にまいった。今でもセブンイレブンに行くと思い出す。
本当に皆明るくて、そして強かった。

でも1人ずつ部屋からいなくなっていくのは、言葉にできないほど悲しくて、
神様を恨んだ。

退館時間になり帰ろうとすると、部屋から少し歩く、遠い出入り口まで、来ないでいいと言うのを聞かず母は必ず見送りに来て、野良猫に残した病院食をあげたりしていた。
【エサをあげないで下さい】と貼り紙があるのに、いつもこっそりあげていた。

そして僕の姿が見えなくなるまで手を振っていた。

話を戻すと、去年はそんな風に過ごしていたのに、今年は「先祖の霊」として迎えるなんて、そんなの気持ちの帳尻が合わないのだ。

と言いつつ盆は大分へ帰ろうと思っている。
色々な思い出がある、安心するやら悲しいやらの複雑な故郷、大分へ。

今でも母とはいつも一緒にいると思っているので、あくまで「文化的行事」として盆を行おうと思う。

時間はあっという間に過ぎていく。

その過ぎ去っていく時間の中でどれだけの大切なものを失って、どれだけの価値を見出していけるか。

時間はあっという間に過ぎていくからこそ、
尊いし、儚い。

その気持ちを噛み締めて、今夏を過ごしたい。

春は出会いと、別れの季節

今年も桜が世間を賑わせたかと思うと、あっという間にお花見シーズンも終焉を迎えた。まだ、というべきか、もう、というべきか分からないが4月になった。

桜といえば母が1番好きだった花で、大分にある片山家の墓石にも桜が描かれている。

10年くらい前に母が墓の横に桜の苗木を植えて、毎年少しずつ少しずつ大きくなっている。

墓は山の中にあって、森に囲まれている。

いつも墓参りに行くと野生のカラスがいて、よくエサをあげていた母に懐いていた。

カラスが人に懐くのは信じられない話だけど、毎回毎回墓参りに行くたびにエサを置いていると母の車が墓の前に止まった瞬間にカラスがやってくるようになった。

恐らくつがいであろう2匹。

「野生のカラスにエサなんて…」とぶつぶつ言っていたぼくもこの前、母の車で墓参りに行ったらあの2匹が飛んでやってきたので、買ってきておいたエサをそっと置いて帰ってきた。

最近はというと、やはりライブを月10本くらいのペースでやっていて、ありがたいことに色々な土地に行っている。

と、同時に気の合う友達と呑んだくれたり、ラジオで新しい音楽と出会ったり、女の子の尻をおっかけたり、相変わらずな生活を送っている。

これは前々から思っていることだけど、僕はバンドの運営も上手いわけじゃないし、頭も決して良い方じゃないけど、いい人と出会う運だけはある。

バンドの友達、先輩、デザイナー、カメラマン、イベントをやってる人や、ショップの人…

こうやって職種を越えてよくしてくれる人がいて、この人たちには本当にいつか恩返しをしたいと思っている。大切な、大好きな人たちだ。ファミリーだ。

きっとこの人たちがいなかったら、呑みに連れ出してくれなかったら、僕は1人で呑んだくれて酷いことになってたと思う。

そして新しい曲も作っている。

初めての曲をライブで積極的にやっている。
前のブログに「怖いことがなくなった」と書いたがこれは曲に関してもそうで、以前は怖くてやれなかったようなアプローチもできるようになった。

伝えたいことが根本に強くあるかぎり、自分らしくないと思っていた歌い方だろうが、自分らしくないと思っていた言葉だろうが、強く揺るぎなく出せるようになった。

新しい曲で「もう一度出会えたのなら、強く愛を確かめ合おう」という内容の曲を書いた。

ただただ甘い言葉を列ねた曲だけど、これは今じゃないと書けなかった歌だ。

去年のツアータイトルから「MAKE A GIRL」と名付けた。きみにも聴かせることができたらいいな。

春は出会いと、別れの季節だという。

新しいことが始まる季節で、新しいことが始まるということは新しい出会いがあり、そして別れもあるという。

でも僕は、もうこれ以上に別れは欲しくない。例えそれによって新たな出会いがなくなるとしても。

きっと生きていくなかで、人生の道を進んでいくなかでそれは必要不可欠なことかもしれない。だけど今ある環境を大事にして、おもしろおかしく上がっていきたい。

それができるかどうかは、自分次第だ。

 

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2015年のはじまり

気付けば2015年になって1ヶ月が経とうとしている。

今年は「明けましておめでとうございます」という挨拶の代わりに「今年もよろしくお願いします」だった。

喪中なので「明けましておめでとう」は決して言わないと決めていたのに、年末のライブでテンションが上がり、年も明けてないのに「明けましておめでとう!」と叫んでしまったのは我ながらエンターテイナーと馬鹿を履き違えた所であり、情けないと同時にそういう所が嫌いでもなかったりするからやっかいだ。

今年に入って新しくレギュラーラジオも始まり、早7本のライブも無事に終了した。

新たなツアーも始まり、一緒にツアーをまわっている仲間と、各地で待ってくれてる人や初めて出会う人のおかげで慌ただしくも楽しい日々を送っている。

それでも、やはり寝る前やふとした瞬間に母のことを考えてしまう。

美味しいものを食べる時は母にも食べさせたかったと思うし、

腹が痛い時は、最期の母はこの何倍もの痛さだったのだろうと想像する。

東京で大きな変化があれば状況だって報告したいし、珍しく雪が降っても以前だったら連絡をくれていた人はもういない。

ツアー先からご当地のものを送る必要もない。

癌の本や、新しい治療法や漢方薬などのニュースを調べることもなくなった。

携帯のアドレス帳「お母さん」からはもう二度とメールも電話も来なくなってしまった。

母の携帯はなんとなく解約することができずにまだ持っている。

どんなに楽しいことがあって、どんなに笑えた1日でも、寝る前には涙が出る。

ぼくはまだ23歳で、結婚だって経験したことないし、子どもだっていない。

ただきっと、生きていると嬉しいことの衝撃より悲しいことの衝撃のほうが大きいのだろうと思う。

少し言い方を変えれば、嬉しいことや喜びは育つ。大きくなっていく。出会いや、出産だったり。物をもらって使ったり。

それに比べて辛いことや、悲しみはいきなりやってきて、その大きく育っていったものが突然消えてなくなる。別れや、死。失うこと。

ただそれと同時に、人間はそれらの悲しみに耐えれるようにできているということも実感した。

人生で一番恐れていたこと。
それが去年やってきた。

もうこれ以上の悲しみを経験することはないのだ。そう考えると怖いものがなくなった。

人と話したり、ステージ等でも臆病になることがなくなった。

人からどう思われているかばかり無駄に考えていたが、今では考え方が変わった。

きみがもしどうしようもない悲しみに打ちひしがれていても大丈夫。

きっと「なんとかなる」。

人間はそうできている。

現在、47都道府県の5分の1くらいに母の骨を撒いてきた。

大分、東京、宮城、秋田、北海道、栃木、群馬、大阪、岡山…

どこもぼくにとっては特別な場所となった。

まだまだ旅は続く。

遅くなりましたが今年も宜しくお願いします。

悲しい思い出は消えることはないけど、
楽しい思い出は、増える。

ふたつの鈴

僕の車には、鈴をひとつ付けている。

クリスマスツリーに飾り付けられる手で握ればちょうどすっぽり隠れるくらいの大きさのどこにでもある銀色の鈴。

バックミラーの下に紐でくくり付けてあり、急発進やカーブする度に「チリン チリン」と音が鳴る。

坂道をのぼれば
「チリン チリン」

右折したら
「チリン チリン」

左折したら
「チリン チリン」

人が道に飛び出てきて急停車したら
「チリン チリン」

この鈴の音を聞くたびに胸がぎゅっと締め付けられて目に涙がたまる。

ーそれは母が亡くなる数週間前の話。

この時期、僕はずっと病院に寝泊まりしていた。あれだけ歩き回ったり、人と話すのが大好きだった母が病院から外出できなくなり、自分の力で立てなくなり、小さな声しか出せなくなっていた。

ベッドで横になってる時間がほとんどになってしまったが、甘いものが好きだった母は、あの和菓子が食べたい、あの店のパンが食べたいなどと言っていた。

その頼まれたものを毎日買いに行くのが日課になっていた。昼になると兄貴が病院にくるのでその間に外出してお菓子やフルーツを買ってくる。

買って病院へ戻ると、本人はほとんど食べれない状態なのだが、一口だけ食べたり、近くの見えるところへ置いてたりすると喜んだ。母が少しでも喜ぶのならなんでもしたいと、毎日何が食べたいか?を聞いてはできるだけ忠実にそれを買ってきた。

時には通販や、母の小さい頃に食べていたものなど、幼少期に住んでいた家の近くのお店をネットで探したりもした。

兄貴と力を合わせて母の好きなものを少しずつ少しずつ病室へ集めた。

これじゃないとダメ出しされることもあったが、目当ての物を差し出したときの笑顔がホッとして嬉しかった。

その間も着実に病気は身体を蝕んでゆく。

がん細胞の増えていくスピードは正確に、止まることなく増えていった。

脳にも転移が見つかった。

思うように身体が動かなくなる。
出せる声が日に日に小さくなっていく。

一緒に泊まっていて、夜中でもなにかあると呼ばれて、起きて様子を見ていた。

ただ僕を呼ぶ声すら出しづらくなっていた。

病室は緩和ケア病棟なので通常の病室より広く、スライドドアを閉めれば2部屋になるリビングのような部屋だった。

常にドアは開けてるが僕の寝てるソファーからだと夜寝てたら、母になにかあっても気付けない。

もちろんナースコールはあるが、僕だけを呼ぶときにどうすれば良いのだろう…。

考えて、母のベッドに鈴を付けたらどうだろうか?と思い付いた。

次の日、兄貴が近くの100円ショップでふたつ入りの鈴を買ってきた。

これを紐でベッドの右側、左側、ちょうど手が届く位置にくくり付けた。

「ふふふ、どう?これでバッチリでしょ?」

少し自慢気に言うと

「チリン チリン」

母は鈴を触ってニコッと笑い、親指と人差し指をくっつけてバッチグーのサインをした。

その夜からが大変だった。

夜中、寝ている母を確認して、ようやく寝ようとしたら

「チリン チリン」

飛び起きて母のベッドに行き、

「どうしたの?」

息のような小声で、
「…水が飲みたい」

また寝たのを確認してこっちも眠りにつくと30分くらいして

「チリン チリン」

バッと飛び起き、

「どした?」

「…布団が重いよ」

それからは毎晩この鈴がなる度に側にいくと「背中がかゆい」や「座りたい」など言っていて、まあ大変だけど、これだけ呼ばれるということは鈴を付けて良かったなあとホッとしていた。

ある日、疲れて寝ていて鈴の音に気付かない時があった。

「チリン チリン…

…チリン チリン…

…チリン チリ…」

ハッと急いで飛び起き、駆け寄ったら

「…ただ呼んだだけ」

とニコッと笑われた時は、この繋がってる点滴をひっこ抜く光景が頭に浮かんだ。

またある夕方、キッチンでリンゴを剥いてるといつものように「チリン チリン」と鳴る。

「電気が直接当たって眩しい」

と言った。確かに部屋の電気が母のベッドからちょうど顔の真上だったので段ボールを切って、天井に貼りつけて光が顔に直接的に当たらないようにした。

「これは我ながら良いんじゃない。どう?」

これまた自慢気に聞くと、

母は両手の人差し指と人差し指をクロスさせてバッテンのようにちょんちょんとしていた。

気にいらなかったのかな?とよく見ると、
ニコニコしてバッテンをちょんちょんとしている。

それは思うように手が動かせなくなった母なりの拍手だったのだ。

普段ステージに立っていると、
拍手をしてもらうこともあり、
時に大きい会場では何百人の拍手を聞くことが少なくともあったが、
これほどずっこけた拍手は今までなかったし、これからもきっとないだろう。

一生忘れない出来事のひとつとなった。

その鈴も日に日に鳴る回数が少なくなっていった。

時にはうっとうしいと感じた鈴の音が聞こえると “ 母が生きている “ とわかる嬉しいものに変わっていった。

誰かに必要とされるということは嬉しいこと。
それが大切なひとだったらなおさらだ。

だが時は確実に過ぎていき、その鈴も鳴らなくなった。

やがて意識がなくなり、鈴はベッドから外された。

母が旅立って病室を片付けている際にそのふたつの鈴が出てきた。

悲しくなるから鈴を処分しようかどうか悩んでいたら、兄貴から 兄弟でひとつずつ持っていよう と手渡された。

病室から出て葬儀社へ向かう際にその鈴を車のバックミラーの下にくくり付けた。

「チリン チリン」

今でも鈴の音が鳴るたびに母がどこかで僕を呼んでいるような気がする。

もしくはいつも口うるさく言っていた

「あんたは運転が下手やけんね。事故だけは気を付けなさいよ。」

と優しく言われてるような。

物の価値観は金額やブランドなんかじゃない。

「何を手に入れるか」より「何のために手に入れるか」

物の美しさはそこで決まるのだと思う。

その100円ショップの鈴は、
今ではなによりも宝物だ。

エンターテイナーとして

12月5日

ずっと前から作り上げてきた企画

THE BOHEMIANSとの2ヶ所だけのツアー

“ MAKE A GIRL TOUR ” 渋谷編。

今年の始めにTHE BOHEMIANSのツアーに呼んでもらって各地4ヶ所をまわった。

そのツアーが楽しくて楽しくてまだやり足りなくて終わってしまうのが寂しくて、

だったらもう一回やろうと考えたのが始まりの東京・大阪の2回公演。

この日は来てくれた人に

現実を飛び出しちゃうくらいの快感を味わってもらうというテーマで

共演や演出、曲順などを考えていた。

その点
THE BOHEMIANSなんて

“非現実的な格好良さ” と
“エンターテイメント性” を
兼ね備えたロックンロールバンドだから、正にピッタリだった。

そしてこのテーマは見事成功した。
昨夜は完璧な夜だった。

THE BOHEMIANSのステージは素晴らしかった。その時点で今日は最高の夜になると確信した。

俺たちのステージが始まって、予想以上の熱気だった。

お客さんも楽しんでくれてて、盛り上がってる顔も見えた。こちらも嬉しくなりどんどんあがっていく。

ただぶっちゃけて言うと

ものすごく楽しく興奮状態のなかでどこか冷静な自分がいた。

ステージに上がっている人間はどれだけ盛り上がっていても冷静な部分を持ってなきゃいけないという話をよく聞くけど

その冷静さとは少し種類の違う、地に足がついていないような、心ここにあらずという感覚だった。

これはなんだ?頭のなかで原因を探した。

(…これでいいのか?

すべてをさらけ出すのがお前の表現じゃないのか?…)

そして最後に、今夜のテーマを無視して皆がどう反応すれば良いのかわからない、
どうしてほしいのかを提示できないことを言ってしまった。

これは俺なりの表現であって「伝えたい」と、強く強く思ったから言ったのだが、結果的にどうすれば良いかわからないという空気を作ってしまった。

結局楽しませるだの、非現実だの、それっぽいことと言ってても最後の最後でエンターテイナーになりきれなかった。

昨夜「俺を除いては」完璧な夜だった。

というのが
個人的な昨日の感想。

まだ大阪編が残っているのにも関わらずこんなことをぶっちゃけるのはどうかと思うが、
この悔しさを次のステージにぶつけたいと思う。

表現とは
全てをさらけ出すこととは
そしてエンターテイメントとは

それらは伝え方一つでイコールになったりならなかったりするというのを学んだ。

最後に

昨夜来てくれた人
昨夜良いと思ってくれた人

俺は全力でやって
今までで一番自分をさらけ出しました。

伝え方はエグかったかもしれない。

ただそれでも付き合ってくれて本当にありがとう。これからも宜しくね。